階段を上ると目の前に案内板があります。
以下、書き写してみました。
「御蔵(おぐら)山
所在地 山田町八幡町地内
おぐら山は年貢米を貯蔵する蔵のあった所である。
慶安元年(1648)正月『宮古、山田御蔵の御勘定書を大槌代官船越新右衛門、小本助二郎、七戸勘之丞の三名の連名で藩に書き上げる』の記録があることから、この頃にはすでに御蔵があったと思われる。
代官所の組織の中に御蔵奉行があり、大槌御蔵と山田御蔵があった。奉行は藩士か所の給人、代官が兼務した。承応三年(1654)の大槌・山田の御蔵奉行は圓子九右衛門で両御蔵合わせて保有米は四百九十七石七斗二升九合八勺である。延享二年(1745)十二月には山田御蔵を立て替えた。御蔵は三間に六間、ひさしは一間に三間、庭は二間に三間の広さであった。
宝暦八年(1758)大槌御蔵が大破したため、山田御蔵を解体し、その材木で大槌御蔵を修理した。これに伴い山田御蔵は無くなった。文政六年(1823)には願銭百貫文を五ヶ村(大沢、上・下山田、織笠、船越)で献金し、御蔵山を五ヶ村共有とした。文政十二年(1829)十月、十分一役所(税金の取立て所)が建てられ、役人は昆仁兵衛。松本五郎兵衛、黒澤六之丞、川端儀兵衛が務めた。
その後、明治三年八月には山田港運上所が設置されたほか、明治二十二年には飯岡村、山田村が合併して山田町となり、御蔵山に町役場が設置された。昭和三一年に役場は現在の場所に移転したが、それまでこの場所は山田の政治の中心であった。
平成十一年三月三十日
山田町教育委員会」
長文でした。
その場所から右手には…
山田駅の時計
針はその日のまま止まっているのですが、周囲の景色が映り込んでしまいよく見えません。
立ち寄った際はお近くでご覧になってくださいね。
震災の記録です。
鎮魂と希望の鐘
東屋
ここからは山田が見渡せます。
日々変わっていく風景と変わらぬ山田湾です。
(千)
そうです。ここは高台なので震災時付近の方はここに避難しました。山田にいらしたら是非時計を見に来てくださいね。