
町の案内板もそのままです。

内容を書き出してみました。
「田名部一里塚
昭和56年9月1日 山田町指定有形文化財
一里塚は中世に、北方の王者と称せられた藤原氏が白川より外ヶ浜に至る百里の道程中、一里(四キロ)ごとに笠卒塔婆を建て里程標示を行った事がその発祥と見られている。現存するように土塚を築き全国的に具現化されたのは、慶長八年(1603)で、徳川家康が江戸日本橋を基点とし、翌九年諸道を整備。三十六町(四キロ)ごとに方五間の一里塚と塚上に榎を植えしめた事をもって初見とする。
南部藩でも、慶長九年以来藩内諸道に一里塚が築造されたが、本町に現存する五カ所の一里塚(石峠・田名部、間木戸、竜泉寺前、萩野)及び大槌町辺地ヶ沢一里塚は徳川三代将軍家光の時代の寛永十八年(1641)より同二十年までの間に、宮古代官小本助兵ェと船越新左衛門両名の道改めにより築造されたものである。宮古と大槌代官所を結ぶ大槌街道は、宮古御水主町を基点としていて、この石峠一里塚はその街道のうちの一つということになる。
一里塚は直接の里程標示としての役割は勿論であるが、交通安全物資の円滑な輸送及び賃制の確立等果たして来た役割は大きく、近世交通史上貴重な価値を持つ史跡である。その中でも本町のように六里の間欠所なく(二塚一対)存在することは全国的にも稀である。
平成十年三月三十日 山田町教育委員会 」
案内板にある「…この石峠一里塚は…」は「田名部一里塚」の誤りではないかと思われます。
震災後、三陸道建設により間木戸一里塚は消失し、現存する一里塚は四ヶ所となりました。
今ある国道45号線ができたのは昭和に入ってからです。
それ以前は浜街道(三陸浜街道)と呼ばれる道を人々は移動していました。その道の一里ごとに一里塚が見られたわけです。
当時の人々がどのような気持ちで一里塚を眺め、この道を歩いていたのか、300年前に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ちなみに数年前の画像はこちら(2015年)

この年には隣に民家があり人が住んでいました。
現在は見たところだれも住んでいないようでした。
おまけ
田名部に群生している水芭蕉。
ひっそりと咲いていました。


(千)